忙しい人のためのナウシカ
2009年10月28日 アニメ・マンガオーマ「俺が裁定者だ」
ナウシカ「その再生を、破壊する」
小学校低学年くらいでナウシカの映画を見て、これからは虫を大事にしようくらいにしか思わなかったが、その後SF好きなおじが持ってたナウシカの漫画版を見て、結構衝撃を受けた。
話のスケールがものすごく大きい。当時はエヴァっぽい心理描写とかカッコイイアクションみたいな分かりやすい要素にしか目が行かなかったので、中盤のクシャナの話とかどうでもよくて、7巻でオーマが出てきてから墓所を閉じるまでの絵的にも分かりやすい部分だけが印象に残った。
ついさっき、友人の研究室に置かれてた漫画版を借りて読み直してみたが、この年になると、ようやくこの混迷を極めたシナリオの面白さが分かったというか、子供の内はすぐ飛影とか哪吒がカッコイイと思うけど、年をとるとちゃんと幽助とか太公望の魅力に気付くとかそんな感じで、クシャナとクロトワ関係の、トルメキア戦役に絡んだシナリオも面白いと思えた。
で、それ以上にナウシカとあの複雑怪奇な腐海に関する設定もちゃんと理解できて、やっと正確に作品のストーリーを把握できた気がするが、最終的にナウシカと主の対話で提示された、生命のあり方のようなものが本作のテーマだとしたら、環境汚染がどうだの、戦争がどうだのといった話は、あまり関係してこないような気がする。
クシャナの「王道」追求の物語は確かにエンターテイメントとしては面白いが、6巻あたりから、それまでの話の流れと思想的にはあまり関連が無い方向にシナリオがシフトしていった気がする。
実際、子供が映画から受け取るであろうメッセージは、おそらく「しぜんをだいじに」であり、腐海は環境を破壊する人間に対するある種天罰のようなものに思えるかもしれないけど、実はその腐海すら人間の意図に従って作られたものだしね。
だから、蟲と心の交流をするとか、そういうのはどうでもよくなって、そもそも生命ってなんなのみたいな抽象的な話題に移っていってしまった気がする。
広義に解釈すれば、生命のあり方とはつまりどう生きるかで、それが環境との接し方などにも言及するのかもしれないが、最終的に、ナウシカと主の思想の対立は、人類の愚かさの象徴である「火の七日間」ではなく、その後の復興プロジェクトの在り様に関しての意見の相違である。腐海や蟲が厳密には人工物であるとするなら、ある意味人類の内輪揉めに見えなくもない。
なので、この話で何か考えなければならないとしたら、それはクシャナ達人間サイドではなく、あくまで7巻での庭園・墓所の論争部分であるように思われる。最後の展開としては、よくあるデウス・イクス・マキナ的なオチというか、墓所の主というラスボスを用意して、これを倒すことで話に収集をつけてはいるが、その際のナウシカの選択が、果たして賛同できるものなのかという事についてだ。
別に賛成できないからといって駄作というわけではないが、ナウシカのおかげで人間サイドのお話は一応ハッピーエンドにはなっているが、実はナウシカは、彼女とセルムしか知りえない、重大な裏切り行為を隠したまま終わっている。
まぁそのナウシカの発言を通して作者が何を伝えたかったのかというのは、すでにたくさんの考察がされているだろうけど。
この手の展開は、最近のSF作品にも結構あるので、それと比較しながら検討してみるのも面白いかもしれない。封神のような、世界を自分なりに良い方向へ持っていこうとしているラスボスの支配から人類を解き放つという感じである。ゾンダーとかもかな。
主人公もラスボスも共に独裁的で、そのような二者の対立関係という構図は似ているけど、微妙に両者の立ち位置が異なる作品として、ブルージェンダーとアーマードコアを思い出した。
ブージェンダーは、人類に襲い掛かってくる化け物が、最終的にプランドスーサイダルという地球の浄化作用であることが判明し、その設定は腐海に酷似している。人類は地球から追い出された後、宇宙ステーションを新しい生活の場にしようとするが結局自滅し、主人公カップルは最終的にその化け物が跋扈する地球で生きようとする。墓所の主が人類の一部で、いわば主人公の同胞だったのに対して、こちらではブルー発生の原因が、地球の総意にあるような曖昧な表現に留められている。単純な「しぜんをだいじに」かもしれない。
一方ACは、シリーズを通して、主人公(レイヴン)というイレギュラーな存在が、その時々の支配体制を打ち破るという展開である。
一部作品には例外があるものの、概ねシリーズを通してのテーマは一貫性があり、レイヴンからリンクスに変わっても、傭兵である限り、主人公はゲーム中でそのような行動を取る。
だが、ACの場合は、主人公とラスボスが、思想的には実は対立していない。実際、シリーズ歴代のボス達は、レイヤードや荒れた地上を管理するものであり、自分達を乗り越える存在が現れるのを待っているだけである。3系が分かりやすいか。
最も、あのフロムの事なので、そこまで考えているかは不明w
どのシリーズでも、とりあえず大戦争で文明は崩壊してるから、ナウシカのテーマに近いものはあるのかも。でも物言わぬ主人公の動機をあれこれフロム脳で補完できちゃうから、ぶっちゃけACは考え始めるとキリがなかったり。主人公をプレイヤーの分身と考えて、感情移入でなくて自己投影をするのなら、ACのストーリーに関してあれこれ考えるのは、最早考察ではなく妄想のような気もする。まぁ、それが楽しんだがw
AC乗りはとりあえず支配からの脱却を目指すってのがシリーズの風潮みたいに扱われるから、fAはORCAルートがトゥルーだってみんな言うんだろうね、やっぱり。
ストーリーに関する情報をあえて制限して、プレイヤーの取った行動がどんな意図の下で行われていたとしてもそれなりに話が通っちゃうのは、むしろ受け手主体になるゲームというメディアにおいて、ある意味一番正解なんじゃないかな。つまり、フロムは神。
( ´神`) < ガッチターン!!
とか無駄に色々考えてみたいけど、そんな暇があるわけも無く。
ビームサーベル系の刀身を、磁気ミラーあたりで制御したプラズマで考えて、スクレイプ・オフ層の輸送をそのままつかってプラズマチェーンソーにするとか頑張って妄想中。
平衡だけど不安定だとか、線形安定性と非線形不安定性だとか、勉強しないといけないことが多すぎる。
ナウシカは、もうちょっと色々な考察を読んでみないとなあ。
ナウシカ「その再生を、破壊する」
小学校低学年くらいでナウシカの映画を見て、これからは虫を大事にしようくらいにしか思わなかったが、その後SF好きなおじが持ってたナウシカの漫画版を見て、結構衝撃を受けた。
話のスケールがものすごく大きい。当時はエヴァっぽい心理描写とかカッコイイアクションみたいな分かりやすい要素にしか目が行かなかったので、中盤のクシャナの話とかどうでもよくて、7巻でオーマが出てきてから墓所を閉じるまでの絵的にも分かりやすい部分だけが印象に残った。
ついさっき、友人の研究室に置かれてた漫画版を借りて読み直してみたが、この年になると、ようやくこの混迷を極めたシナリオの面白さが分かったというか、子供の内はすぐ飛影とか哪吒がカッコイイと思うけど、年をとるとちゃんと幽助とか太公望の魅力に気付くとかそんな感じで、クシャナとクロトワ関係の、トルメキア戦役に絡んだシナリオも面白いと思えた。
で、それ以上にナウシカとあの複雑怪奇な腐海に関する設定もちゃんと理解できて、やっと正確に作品のストーリーを把握できた気がするが、最終的にナウシカと主の対話で提示された、生命のあり方のようなものが本作のテーマだとしたら、環境汚染がどうだの、戦争がどうだのといった話は、あまり関係してこないような気がする。
クシャナの「王道」追求の物語は確かにエンターテイメントとしては面白いが、6巻あたりから、それまでの話の流れと思想的にはあまり関連が無い方向にシナリオがシフトしていった気がする。
実際、子供が映画から受け取るであろうメッセージは、おそらく「しぜんをだいじに」であり、腐海は環境を破壊する人間に対するある種天罰のようなものに思えるかもしれないけど、実はその腐海すら人間の意図に従って作られたものだしね。
だから、蟲と心の交流をするとか、そういうのはどうでもよくなって、そもそも生命ってなんなのみたいな抽象的な話題に移っていってしまった気がする。
広義に解釈すれば、生命のあり方とはつまりどう生きるかで、それが環境との接し方などにも言及するのかもしれないが、最終的に、ナウシカと主の思想の対立は、人類の愚かさの象徴である「火の七日間」ではなく、その後の復興プロジェクトの在り様に関しての意見の相違である。腐海や蟲が厳密には人工物であるとするなら、ある意味人類の内輪揉めに見えなくもない。
なので、この話で何か考えなければならないとしたら、それはクシャナ達人間サイドではなく、あくまで7巻での庭園・墓所の論争部分であるように思われる。最後の展開としては、よくあるデウス・イクス・マキナ的なオチというか、墓所の主というラスボスを用意して、これを倒すことで話に収集をつけてはいるが、その際のナウシカの選択が、果たして賛同できるものなのかという事についてだ。
別に賛成できないからといって駄作というわけではないが、ナウシカのおかげで人間サイドのお話は一応ハッピーエンドにはなっているが、実はナウシカは、彼女とセルムしか知りえない、重大な裏切り行為を隠したまま終わっている。
まぁそのナウシカの発言を通して作者が何を伝えたかったのかというのは、すでにたくさんの考察がされているだろうけど。
この手の展開は、最近のSF作品にも結構あるので、それと比較しながら検討してみるのも面白いかもしれない。封神のような、世界を自分なりに良い方向へ持っていこうとしているラスボスの支配から人類を解き放つという感じである。ゾンダーとかもかな。
主人公もラスボスも共に独裁的で、そのような二者の対立関係という構図は似ているけど、微妙に両者の立ち位置が異なる作品として、ブルージェンダーとアーマードコアを思い出した。
ブージェンダーは、人類に襲い掛かってくる化け物が、最終的にプランドスーサイダルという地球の浄化作用であることが判明し、その設定は腐海に酷似している。人類は地球から追い出された後、宇宙ステーションを新しい生活の場にしようとするが結局自滅し、主人公カップルは最終的にその化け物が跋扈する地球で生きようとする。墓所の主が人類の一部で、いわば主人公の同胞だったのに対して、こちらではブルー発生の原因が、地球の総意にあるような曖昧な表現に留められている。単純な「しぜんをだいじに」かもしれない。
一方ACは、シリーズを通して、主人公(レイヴン)というイレギュラーな存在が、その時々の支配体制を打ち破るという展開である。
一部作品には例外があるものの、概ねシリーズを通してのテーマは一貫性があり、レイヴンからリンクスに変わっても、傭兵である限り、主人公はゲーム中でそのような行動を取る。
だが、ACの場合は、主人公とラスボスが、思想的には実は対立していない。実際、シリーズ歴代のボス達は、レイヤードや荒れた地上を管理するものであり、自分達を乗り越える存在が現れるのを待っているだけである。3系が分かりやすいか。
最も、あのフロムの事なので、そこまで考えているかは不明w
どのシリーズでも、とりあえず大戦争で文明は崩壊してるから、ナウシカのテーマに近いものはあるのかも。でも物言わぬ主人公の動機をあれこれフロム脳で補完できちゃうから、ぶっちゃけACは考え始めるとキリがなかったり。主人公をプレイヤーの分身と考えて、感情移入でなくて自己投影をするのなら、ACのストーリーに関してあれこれ考えるのは、最早考察ではなく妄想のような気もする。まぁ、それが楽しんだがw
AC乗りはとりあえず支配からの脱却を目指すってのがシリーズの風潮みたいに扱われるから、fAはORCAルートがトゥルーだってみんな言うんだろうね、やっぱり。
ストーリーに関する情報をあえて制限して、プレイヤーの取った行動がどんな意図の下で行われていたとしてもそれなりに話が通っちゃうのは、むしろ受け手主体になるゲームというメディアにおいて、ある意味一番正解なんじゃないかな。つまり、フロムは神。
( ´神`) < ガッチターン!!
とか無駄に色々考えてみたいけど、そんな暇があるわけも無く。
ビームサーベル系の刀身を、磁気ミラーあたりで制御したプラズマで考えて、スクレイプ・オフ層の輸送をそのままつかってプラズマチェーンソーにするとか頑張って妄想中。
平衡だけど不安定だとか、線形安定性と非線形不安定性だとか、勉強しないといけないことが多すぎる。
ナウシカは、もうちょっと色々な考察を読んでみないとなあ。
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