今日読んだ漢文、「老子」の一節「無用の用」は面白かったです。
無用の用とはつまり、働きの無い物の働きという意味で、ここでは三つの例が挙げられています。
一つ目は、車輪は空洞があることで車輪として機能するということ。つまり、車輪に軸が通せるので、車輪として回せるということです。
二つ目は、容器は、中に何も無い空間があることで容器として機能するということ。これはそのまんまの意味で容器の中は空洞なのでものが入れられるという事ですね。
三つ目は、容器と大体同じで、部屋は、内部が空間なので、そこで人が生活できる、つまり部屋として機能するということです。
くどくなっちゃいましたが、これらはいずれも、何もない空間(=働きの無い物)が持つ働きを表しています。今更言われるまでもない極当たり前のことですが、でもああなるほどと思えます。ゼロが実はゼロじゃないという感じですかね。
以前評論文で、「論理的に言うとは、言葉の使用規則に従ってすでに述べたことを繰り返す」というのを読んだことがあります。ということは、論理的に述べる内容は冗長とも言えるが、しかしある種の法則のような、かならず成り立つ事なのです。
「無用の用」が、論理的に述べられているとするなら、老子は、「無が有を為す」という、不変の原理とも言える事柄を我々が意識しないような大きな視点から見たということではないかと思います。
このような古い思想がいまだに古典として残っているということは、やはり古代の人々は目の付け所が我々とは違ったということなんですかね。温故知新とはよく言ったものです。
もっとも、これはあくまで僕個人の解釈なので、世間ではもっと違う読み方が沢山あるでしょう。僕は考古学者でも何でもないんで、全く見当違いの読み方をしているかもしれませんが、古典が苦手な僕も、「無用の用」は読んでて面白かったです。
ディズィーの方は、相変わらず投げの練習です。ダッシュFC投げを話し相手のパクパクの間に挟むのは難しいです。というかパクパクの硬直時間を正確に把握しないといけないようです。
無用の用とはつまり、働きの無い物の働きという意味で、ここでは三つの例が挙げられています。
一つ目は、車輪は空洞があることで車輪として機能するということ。つまり、車輪に軸が通せるので、車輪として回せるということです。
二つ目は、容器は、中に何も無い空間があることで容器として機能するということ。これはそのまんまの意味で容器の中は空洞なのでものが入れられるという事ですね。
三つ目は、容器と大体同じで、部屋は、内部が空間なので、そこで人が生活できる、つまり部屋として機能するということです。
くどくなっちゃいましたが、これらはいずれも、何もない空間(=働きの無い物)が持つ働きを表しています。今更言われるまでもない極当たり前のことですが、でもああなるほどと思えます。ゼロが実はゼロじゃないという感じですかね。
以前評論文で、「論理的に言うとは、言葉の使用規則に従ってすでに述べたことを繰り返す」というのを読んだことがあります。ということは、論理的に述べる内容は冗長とも言えるが、しかしある種の法則のような、かならず成り立つ事なのです。
「無用の用」が、論理的に述べられているとするなら、老子は、「無が有を為す」という、不変の原理とも言える事柄を我々が意識しないような大きな視点から見たということではないかと思います。
このような古い思想がいまだに古典として残っているということは、やはり古代の人々は目の付け所が我々とは違ったということなんですかね。温故知新とはよく言ったものです。
もっとも、これはあくまで僕個人の解釈なので、世間ではもっと違う読み方が沢山あるでしょう。僕は考古学者でも何でもないんで、全く見当違いの読み方をしているかもしれませんが、古典が苦手な僕も、「無用の用」は読んでて面白かったです。
ディズィーの方は、相変わらず投げの練習です。ダッシュFC投げを話し相手のパクパクの間に挟むのは難しいです。というかパクパクの硬直時間を正確に把握しないといけないようです。
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